燕
2017.06.27(火)
何の話しからだったかは忘れたが、先日長男と話していて。私が言った言葉に長男が、
「俺が一番荒れてた頃、母さんがそう言ったのが今でもずっと残ってるよ」
と、ポツリと言うのでとても驚いた。
私が言った言葉とは、
「どんな些細なことでも、感動できる心が大切」
ということで、これは常々思っていることだった。自分では『幸せになるコツ』だとも思っている事だ。
言い換えれば、ちょっとしたことにも全力で喜べる。ほんのちょっとしたことでも嬉しいなと感じられる。そんな物事に感動する心を失いたくないということだ。
同じようなことがあっても、同じような景色を見ても、同じように過ごしていても、面白いことや楽しいことを、見落とさないで喜べたら、どんなに素敵なことだろう。
何歳になっても、感動する心を無くしたくないなと、今更ながらに思う。
東京へ引っ越して、再婚したのは長男が中2の頃。本人は荒れていた時期と捉えていたようだが、私には至極当たり前のような気持もあったし、長男が荒れたくなる気持ちも分かる気もしていたから、言葉にするのは難しいが、何というか、成長するときの歪。それとも、生まれ出時の苦しみ…みたいな感じで長男を見つめていたことを思い出す。
思うようにいかない苛立ちの中で、もがき苦しむ姿を見るのは辛く、けれど母も同じなんだよと心の中で思いつつ、なんの力にもなれない無力な母であることを、心の底から申し訳なく思ったことも多々あった。
そんな気持ちの中で、自分自身をしあわせにする方法があるとしたら、きっとそれは自分の心次第のような気がして、きっと自分自身に言い聞かせるように、子どもたちにも話したのかも知れない。
あれから10年以上たった今、息子の心の中に私の言葉が生きていることを知って、嬉しいような怖いような、そして、今でこそ思う、母と言えどもさほど変わらない私なのに、母にしてもらったことは、やっぱりとてもスゴイことだったんだなと思ってしまった。